『一遍聖絵』によれば、弘安二年(一二七九)一遍上人の一行が善光寺への遊行の際で長野県・佐久地方で踊り念仏を行なう姿が描かれています。そこに法衣に身を包んだ僧侶や武士たちが輪になり念仏を唱えながら踊る姿が描かれます。これが一遍上人の一団が踊り念仏を行なった最初とされます。こうした踊り念仏は一説によれば、平安時代の中期の僧・空也上人によって始められた「空也念仏」がルーツであり、瓢箪や鉢を叩き、鉦を鳴らして念仏を唱えて踊ったのがはじめとされています。空也上人もまた、身分の高い人々にではなく市中において多くの人々に仏教を説いた僧侶であり、一遍上人は「空也は我が先達なり」とその功績を称えています。
なかでも一遍上人を一躍有名にした踊り念仏がありました。
神奈川県・片瀬の浜にある地蔵堂での踊り念仏です。「一遍聖絵」第六巻にはその時の様子が描かれています。地蔵堂の前には屋根付きのステージが作られ、法衣の僧侶や時衆たちが狭い舞台で踊り念仏を行なっています。彼らは口ぐちに念仏を唱えながら踊っており、その姿を沿道を埋め尽くした多くの人たちが拝んでいます。
七日の日中にかたせの浜の地蔵堂にうつりゑて、数日をくり給えけるに、
貴賤あめのごとく参詣し、道俗雲のごとく群衆す。
『一遍聖絵』第六巻
身分の高い者も低い者も大挙して参詣し、先を争って見物したことが伝えられます。
弘安五年(一二八二)、佐久での初めての踊り念仏から三年後のことでした。この地での踊り念仏の大成功によって、遊行、念仏札の賦算とともに「踊り念仏」が一遍上人を象徴するようになったのです。
その後、一遍上人と時衆の一団は伊豆、尾張を経て京都へと遊行の旅を続けます。
弘安七年(一二八四)には京都・四条の釈迦堂に到着。京の人々が先を争うように一遍上人から念仏札を受け取る様子が「一遍聖絵」に描かれています。また、空也上人ゆかりの六波羅蜜寺を訪ね、その後に市中の道場で踊り念仏を行ないました。鎌倉幕府にほど近い片瀬に続き、京の都においても一遍上人の名は人々の心に深く刻まれたのです。
一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と必定するところ也。
信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし。
『一遍聖絵』
(すべての人は南無阿弥陀仏を唱えることで極楽往生が叶う。
ですから、それを信じない者であっても、どんなに穢れた者であってもお札を配るのです)
一遍上人は、すべてを捨て、遊行によって、貧しき人々や様々な苦しみに苦悩する人々の心に大きな希望をもたらしました。そうした人々の心の底から湧きあがる喜びは、やがて彼らの体を揺り動かしました。それはやがて「踊り念仏」という形で表現され、喜びに歓喜する人々の輪をどんどん大きなものへと成長させてゆきました。
無量光寺のあるこの当麻の地では、今日も一遍上人のご遺志が息づきます。
そして、檀信徒の人々の熱い想いと絶え間ない努力によって「踊り念仏」が大切に守り継がれているのです。
一遍上人のご供養として、毎年、踊り念仏を奉納しています。
開山忌とは、一遍上人の功績を称え、お祈りする法要です。
この日には、当寺のご本尊『一遍上人像』を特別に公開いたします。
さらにお檀家の方々による双盤講、踊り念仏の奉納、お稚児行列なども行われます。
また、境内には屋台なども出店、多くの方々で賑わいます。
無量光寺 開山忌法要 10月23日
午前:ご開帳法要(ご本尊の御開帳)、音楽講・双盤講・踊り念仏奉納
午後:お稚児行列・開山忌法要、境内ステージでの余興、など