お寺の北西500mほどの山中に「笈退りの遺跡」があります。
弘安5年(1282)初夏の頃、この地域に80日余りの日照りが続いたことがありました。
農作物は枯れる一方で、村人たちの嘆き苦しむ姿を見るにしのびず、一遍上人は庶民救済のために大石の上に持佛を安置し、三日三晩一心に念佛称名をしました。
三日目に手にした錫杖で地下3寸を突くと不思議にも清らかな泉がこんこんと湧き出し、あたり一面にあふれ、石の上においた笈(おい)※を後ろに退らせるほどだったといいます。
そのことから、この泉を「笈退りの水」と呼び慣わすようになりました。この湧泉によって農村が救われたことは言うまでもありません。以来720年ほど村人たちはこの泉の流れの恩恵をもって生活してきたのです。【市指定史跡】
※ 笈(おい):経本や仏具などを入れて持ち運ぶ道具のこと
笈退りの遺跡
笈退りの水
当山の西方、旧国道(129号線?)の左側に「お花ヶ谷戸」と呼ばれる遺跡があります。
相模川を隔てた南方に依知という所があり、この地に地頭本間六郎左衛門重連の屋敷(現日蓮宗妙伝寺)がありました。文永8年(1271)に龍ノ口の法難をのがれた日蓮上人は、佐渡へ流される途中本間の屋敷に滞在しました。比叡山での法友であった一遍上人は相模川を渡り、日蓮上人を訪ね法談を交わしたといいます。
この時、若き一遍上人の気品ある容姿に本間の娘・お花は心をとらわれてしまいます。
恋慕の情退けがたく、相模川を渡りたびたび当麻の金光院の一遍上人のもとに通い面会を求めますが、上人に会うことはかなわず、上人の念佛の声の聞こえる西方の谷戸に庵を作り、一遍上人の念佛に合わせて称名して過ごしたといいます。
後に村人たちはこのお花の悲恋をあわれみ、この地をお花ヶ谷戸と呼んでお花の菩提を弔ったと伝えられます。
一遍上人像
山門を登り石畳を進むと正面に一遍上人の銅像が建っています。
ちょうどそこが、この一帯が明治26年末の大火によって焼失した旧本堂跡です。
木造のご本尊は仮本堂に安置されています。
山門
参道を進んでまず最初に目にするのが、「当麻山」の扁額を掲げた二脚門の山門。
腕木門の親柱の背面に袖をつけ、屋根をかけた高麗門と呼ばれる形式の門です。
間口は12尺(約3m60cm)ありまして親柱も1.5尺ほどあり、堂々たる佇まいをみせます。【平成13年4月 市指定有形文化財】
本堂
旧本堂跡にある一遍上人銅像の右手後方、旧佛殿跡地に仮本堂があります。
内部正面には一遍上人が頭部を自作されたと伝えられる立像が安置され、御影の像とあがめられています。毎年10月23日の開山忌には御開帳され、たくさんの信者さんが拝みに来られます。
ご本尊の右脇には二祖真教上人、左には三祖智得上人像が安置されています。
【昭和33年 相模原市重要文化財指定】
鐘楼
境内右手に「南無阿弥陀仏」と書かれた鐘楼があります。
鐘銘には開祖一遍上人の名が記されています。
仮本堂の右後方に、一遍上人が自らの姿を映してその姿を描き、木像を刻まれたという御影の池があります。
四季の移ろいを湖面に映し出し、参拝者の目を楽しませます。
庭園の様子
亀
お髪五輪塔
本堂左後方に進みますと、二基の五輪塔があります。
これは南北朝の頃、応安元年(1368)新田義宗が南朝方につき挙兵の折、徳川家康の先祖であります世良田左京亮有親、松平太郎左衛門尉親氏父子が義宗の側につき戦いましたが戦に利あらず、父子共々戦乱を逃れてこの寺に入りました。そのまま八世良光上人の剃髪を受けて出家し、その髪をこの塚に埋めたことから、村人は「お髪塚(おはつづか)」と呼ぶようになりました。
その後、有親は長阿彌、親氏は徳阿彌と号し修行に勤めました。
父長阿彌はその後この寺で亡くなり、九世慈光上人によりこの塚に遺骨を納め五輪の塔を建立し供養したと伝えられます。息子の徳阿彌は西下し三河の地において松平家を起こし徳川家へと繋がったのです。
なぎの木
山門の右下の所に常緑樹の背の高い木がそびえています。
この大木は「さかさナギの木」と呼ばれ、一遍上人が西国より杖にしてきた一本の椰(なぎ)の木をこの地に刺したところ、根が生え芽を出して育ったといわれています。
村人たちは、これは一遍上人の法力によるものと思ったそうです。
椰の木は関西以西に自生する亜熱帯性の木で、古くは熊野速玉神社の御神木として知られ、関東で見られるのは珍しいことです。
金光院跡
「なぎの大木」のうしろに草叢があります。
そこが、最初に一遍上人が庵を結んだ金光院の跡といわれています。
芭蕉句碑
山門をくぐって参道を進むと、右手に芭蕉句碑があります。
碑面には
とあります。
この句碑には年代も建立者も刻まれておりませんが、左の丈水句碑から推察しますと、当時の住職だった52代他阿霊随和尚らが中心となって建てたものと思われます。霊随和尚は俳諧にも長じ丈水とも親交があったといわれます。
丈水句碑
芭蕉句碑と参道を隔てた反対側の左手に五柏園丈水の句碑があります。
碑面には
と記されています。
芭蕉句碑が建立された後、その意味を内包し、それを迎えて作られたものと思われます。
鐘楼の横に2社がまつられていますが、1社は一遍上人ゆかりの熊野権現をまつったもので、本地は阿彌陀如来です。
以前は村人たちから「オクマンサマ」と呼ばれていました。
その右隣の祠は東権現といい、明治以前は寺の東方当麻坂の中腹、東澤寺中に各夜姫を養蚕の守り神としてまつられてあったものを、東澤寺が荒廃し、廃寺となってしまったので当山に移転し、まつったものです。