【本尊】一遍上人立像
【開山】一遍上人
【開基】二祖真教上人
当寺をひらいたのは、「踊り念仏」を広めたことで知られる一遍上人さまです。
弘長元年(1261)秋もなかばのこと、一遍上人(当時23歳)は諸国遊行の旅の途中、依知の里の薬師堂(現在の瑠璃光寺〈神奈川県厚木市上依知 当寺から相模川をはさんで西南方面にある〉)に一夜の宿をとり、夜もすがら一心に念佛を唱えていました。すると真夜中頃東の空が急に光り輝き、妙見菩薩が姿を現され、「あなたのおいでになるのを長い間待っていた。この山はあなたに宿縁のある山である。この山で修行すれば念佛の功徳は四海に及ぶであろう。ゆめゆめ疑うことなかれ」と告げられ紫雲の中に消えたのです。
上人はこの有り難いお告げに感激し、夜の明けるのも待ちきれず、相模川を渡り、東北方の大樹の茂る亀形の丘に登ってみると、そこに妙見菩薩の小さなほこらを発見しました。上人はここに草庵(粗末な住まい)を結び金光院と名付け、修行に励まれましたが、弘長3年(1263)、父河野通廣公死去の悲報を受け、故郷の伊予(現在の愛媛県)に向け旅立たれました。
その後、文永7年(1270)上人が32歳の時、また弘安4年(1281)43歳の時に、奥州遊行の帰路、当山にとどまり修行をされたと伝えられています。
弘安5年(1282)の3月、上人は鎌倉方面に向け遊行の旅に発たれることになりました。
このとき名残を惜しむ弟子や信徒に乞われ、自らの姿を水鏡に映し、筆をとって絵姿を描き、自ら頭部を刻み、弟子たちも力を合わせて等身大の木像を完成されました。これが御影の像として尊ばれ、現在も本尊として安置され、多くの人々を信仰の道に導かれているのです。
亀形峯地図
一遍上人からお寺を引き継ぎ、基礎をつくったのは真教上人さまです。
真教上人は一遍上人が九州地方を遊行されていた時、上人の信仰の深さに心打たれ、一遍上人に帰依されました。それより終始一遍上人と遊行をともにされ、一遍上人の信頼も厚かったといわれます。
宗祖・一遍上人が臨終の際にはそれに殉じようとされましたが、衆徒に乞われて宗祖の教義を継がれ、嘉元元年2月(1303)、老衰と病弱のため遊行を智得上人にゆだねて、宗祖ゆかりの地当麻に帰り、その翌年、ここに一宇(建物)を建立しました。無量光佛(阿弥陀如来の別名)の由来からその名を「無量光寺」と名付け、宗祖の分骨を埋骨して時宗教団の本拠地とし、念佛の根本道場として守り続けられたのです。
真教上人は文保3年(1319)1月27日示寂される(亡くなる)までの16年間当山にあって、衆徒の教化に努められました。
その後の当麻山は後北条氏の外護を受け、天正19年(1591)には徳川家康より30石の寺領を寄付され寺門は大いに繁栄したそうです。しかし天文年間には北条、上杉の戦の折に伽藍が焼失し、天正年間(1573〜1593)、元和年間(1615〜1623)にはともに火災にあいました。
安永2年(1773)の火災においては絵詞伝8巻を始め、貴重な寺宝が多数焼失してしまいます。その後再建された堂宇も明治26年には全焼し、現在、旧本堂跡は空き地となっており、一遍上人の銅像がそこに建っています。
毎年10月23日には開山忌法要が営まれます。
本堂内部に安置されている御影の像が御開帳され、多くの信徒さんで賑わいます。