開祖 一遍上人

開祖 一遍上人

一遍上人像

この当麻山を開山し、時宗の開祖として崇められている一遍上人は、延応元年(1239)2月15日、伊予の名門武士であった河野家、通廣公の次男として生まれました。

幼名を松寿丸といい、幼くして母を亡くしてしまいますが、父のすすめにより7歳にして同国越智郡の得智山に登り、縁教律師を師として仕え、修行にはげみました。そして15歳のとき、同師について剃髪し、名を随縁と改め、台教(天台宗の教え)を学びます。
18歳のとき、比叡山(延暦寺)に登り慈眼僧正の室に入り、三大部及び密灌をうけます。
22歳のとき、兄通真の死去により、家督相続の争いに巻き込まれ、ますます発心を強くし叡山を出、修行の旅に出ます。
26歳のとき、深く浄土門に帰し、法然上人の弟子として知られた観智上人のもとに赴き7年間修行し、浄土の安心を伝授され名を智真と改めます。

建治元年(1275)、37歳のとき宇佐八幡宮にて参籠の後霊夢を感じ、回国結願の大願を起こし、南無阿弥陀佛の名号の算(ふだ)を作り人々に配り諸国を遊行するになります。

建治2年3月25日、(当時、もっとも阿弥陀の浄土に近い場所とされていた)紀伊国熊野本宮の證誠殿において、百日参籠につとめます。その満願の日、まのあたり熊野権現にまみえ本願の深意、他力の奥旨を悟ります。この時より一遍と名乗り、《賦算(名号のお札をくばる)を続ける》旅に出ます。

弘安2年(1279)、41歳の時、信州佐久郡で踊り念佛を始めます。その後、正応2年(1289)8月23日、摂津国(兵庫)の観音堂で51年の生涯を終えられます。
南は九州から北は奥羽にいたるまでくまなく遊行し、身命を尽くされた一遍上人は法然上人、親鸞聖人と並び日本浄土教を確立された名僧として称えられています。

 

南無阿弥陀佛 〜 一遍上人法語 〜

夫念仏の行者用心のことしめすべきよし承り候。南無阿弥陀仏と申す外、さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。諸の智者達の様々に立ておかるゝ法要どもの侍るも、皆諸惑に対したる仮初めの要文なり。されば、念仏の行者は、かやうの事をも打ち捨てて、念仏すべし。「むかし、空也上人へ、ある人、『念仏はいかがもうすべきや』と問ひければ、『捨てゝこそ』とばかりにて、なにとも仰せられず」と、西行法師の撰集抄に載せられたり。是誠に金言なり。念仏の行者は智恵をも愚癡をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるゝ心をもすて、一切の事をすてゝ申す念仏こそ、弥陀超世の本願にはかなひ候へ。かやうに打ちあげ打ちあげとなふれば、仏もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善悪の境界皆浄土なり。外に求むべからず、厭ふべからず。よろづ生きとしいけるもの、山河草木、ふく風たつ浪の音までも、念仏ならずといふことなし。人ばかり超世の願に預るにあらず。またかくのごとく愚老の申す事も意得にくゝ候はば、意得にくきにまかせて愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念仏したまふべし。念仏は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。弥陀の本願には欠けたる事もなく、あまれることもなし。此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念仏したまふべし。南無阿弥陀仏

【 現代語訳 】

念仏の行者で一番心に留めておくべきことは、南無阿弥陀仏ととなえるほかに何もないのである。昔から今日まで立派な人たちが定められた仏法の要義も、しょせんはかりそめのもので、真の念仏の行者は、そんなものは皆捨ててしまえばいいのである。わたしの先達である空也上人も、ただひとこと、捨てることだ、と言われたとある。これはまったく黄金のような言葉である。念仏の行者は、知恵も愚痴も、善悪の境地も、貴賤高下の道理も、地獄を恐れたり、極楽を願うたりする心も、悟りも、すべて捨てて申す念仏というものが、阿弥陀仏の本願に一番かのうものである。この心を心として声高らかに称名すれば、この世が浄土である。宇宙すべてのものは仏と一体になり、念仏をとなえているのである。もしわたしの言うことに納得いかないなら、それもそのままにして念仏を申しなさい。肝心なことは、愚かな者の心になって念仏を申すことである。

『一遍上人語録 捨て果てて』坂村真民 より